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教育長日記子どものための富士見町史読書・研究ノート長野県教育史研究

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「子どものための富士見町史」他

2013年05月02日
 本「教育長日記」にぶら下げてあるリンク「子どものための富士見町史」「読書ノート」「長野県教育史」を1年ぶりに更新しました。お暇な折にごらんください。
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サイトをリニューアル

2011年01月02日
 いつも教育長日記をご愛読いただき、ありがとうございます。
今年から、「教育長日記」に加えて①「子どものための富士見町史」、②「読書・研究ノート」、③「長野県教育史研究」のサイトを新設しました。

 ①「子どものための富士見町史」は郷土紙『長野日報』に毎週金曜日に連載していたものですが、土・日に出勤して書き続けることに体力的に限界を感じ、休載していたものです。このままの状態でいくと未完で終わりそうですから、時間に制約されないこのブログで書き続けていくことにしました。 最初の30数回は既に紙上に発表したものを再掲載します。

 ②「読書・研究ノート」は、教育研究や教育行政研究はもとよりみずからの生き方をより広くより深くしたいと願って、より自覚的に教養を高めたいと設けたサイトです。

 ③「長野県教育史研究」は、ライフワークの研究テーマであるにもかかわらず、継続的な積み重ねをしてこなかったことを反省し、公開研究のかたちで進めようと意図してサイトを新設したものです。
 既に発表したものを繰り返し繰り返し徹底的に推敲しながら、完成を目指します。
 先ずは、既に発表した原稿を掲載します。

 ●新サイトは、一番上の欄に並んでいます。いずれも準備中です。近日中に内容を順次掲載します。

子どもの歴史

2009年05月21日
 「長野日報日報」のHPを閲覧していたら、ぼくの「子どもの歴史」に期待を寄せる“八面観“というコラムにヒットした。( 2006年10月12日付)。すっかり忘れていた。それから2年半が経った。教育長の仕事に忙殺されていて、遠い課過去のような気がする
 ≪縄文時代の表現手法として、土器などに立体的文様が描かれていることは多いが、絵画は珍しい。しかも、お産の様子を描いた絵は他に類例がない▼富士見町教育委員会が今年、町文化財に追加指定した「唐渡宮(とうどのみや)遺跡の人体絵画土器」がそれだ。約4200年前の深鉢。底部近くには黒色顔料で毛筆によると推測される具象的絵画が描かれている。土偶に似た上半身、左右に大きく広げた両脚、直下には形状不明の物体。「母神の出産」を描いたと解釈されている▼青森市では先月、3人の人物像が線状に刻まれた縄文時代後期(約3500年前)の石器が出土したと発表があった。注目すべきは、3人は大人の男女と子どもで家族を表現したとみられることだ。複数の人物を描いた縄文時代の線刻は国内初。縄文人は絵を描くことは少なかったが、描くものにはそれぞれ意味を持たせた。2つの家族関係を示す人物画は図像学の分野からも興味深い発見になりそうだ▼本紙に「子どものための富士見町史」を連載する小林洋文教育長によると、古代に限らず、歴史の中に子どもはほとんど登場してこない。歴史書が政治史であるためで、生活ぶりを知る手がかりは土器・土偶や都の情景を描いた絵巻物などに限られる。教育史でさえ、子どもの視点で書かれたものは少ないという▼今月からは第2部「富士見の子ども」に入った。子どもを軸に歴史を追う試みは画期的。今後の展開が楽しみだ。
 初心忘るべからず。


●今日は「小満(しょうまん)」、≪汗ばむ陽気の中、草木が成長し、あたり一面に満ち始める。麦の穂も熟して、刈り入れ間近。麦秋(ばくしゅう)と呼ばれる時分でもある。≫(読売コラム)
●昨日は五月晴れ。朝日に照り輝く田んぼはもう代かきも終り、中には済んだ所もあるが、この週末あたりに一斉に田植えがされるようである。「富士見高原の一年で一番いい季節」と人は言う。景観もさることながら、6.21の夏至に向けて日照時間がどんどん延びていくのが最高だ。

  新任の教師の荷着く花の里   (飯田市)今村 久  (4.30信濃毎日新聞<俳壇>)

●あすから一泊二日で、教育委員のみなさんと群馬県桐生市へ出かける。関東甲信越静教育委員会総会。委員さんは、すぐお隣りの「足利学校(栃木県足利市)を見学してきたい」とのこと。

埋もれていた子どもの歴史

2009年05月15日
「長野日報」毎週金曜日連載「子どものための富士見町史」 第14回~ 第2部<富士見の子ども>
 見出し一覧


(14) ①誕生  歴史に登場してこなかった子ども、子どもの歴史は近世から 2006/06/09
(15) ②誕生  命の誕生は「神話的時間」、神話に苦労は付きものだが・・・ 06/08/25
(16) ③誕生  人生を精いっぱい生きる、「生まれる」ということ 06/09/01
(17) ④人の一生  人生で迎える7つの節目、「7つ前は神の子」 06/09/08
(18) ⑤「子ども」の呼び名  「子ども」の呼び名はいつから? さまざまな呼び名 06/09/15
(19) ⑥「子ども」の呼び名  「呼び名」は子ども観に反映 06/10/06
(20) ⑦旧石器時代  人類最古の子どもの足跡、富士見町の子どもの歴史は 06/10/13 
(21) ⑧縄文時代1  埋甕(うめがめ)に描かれたお産の図―富士見町が誇る世界的遺産 06/11/17
(22) ⑨縄文時代2  女性にとって出産は命がけ、多産多死 07/02/02
(23) ⑩縄文時代の子3  富士見から新説「縄文農耕論」、石臼と磨り石に多産の願いこめる 07/02/23  
(24)  (11)縄文時代の子4  縄文時代から現代までの日本の人口の変化、多産多死ー多産少死ー少産少死 07/03/09
(25) (12)縄文時代の子5  出産と農耕生活 密接な関係、種の保存は最大の課題 07/03/23
(26) (13)縄文の子6  縄文人の家族形態の研究は未開拓 07/04/06

 「子どもの歴史」研究は研究者の間でも緒についたばかりである。まして、「富士見町にと地域を限定した子どもの歴史研究は『富士見町史』(上下巻)を読んでもほとんどまったく触れられていない。日本、世界全体を視野に入れて考察していきたい。


●早朝5時過ぎ、林文子さんの≪「ほめる」ことから始める≫のテレビ再放送で見る。
●臨時議会
●全協で5.13の定例教育委員会決定を説明。
●伊波敏男さんの『ハンセン病を生きて―きみたちに伝えたいこと』(岩波ジュニア新書)を読み終える。

子どもの歴史―研究ノート

2009年05月14日
 『富士見町史』上・下巻完結(2005年8月)を記念して、2006年1月から郷土紙『長野日報』に「子どものための富士見町史」の連載を始めた。
 だが、翌2007年4月6日の第26回、「第2部 富士見の子ども⑬」<縄文時代の子⑥>“縄文人の家族研究は未開拓”を最後に中断している。公務多忙のためであったが、休日返上で土曜日、日曜日に役場に来て執筆することなど、この年になっては所詮無理だったのだ。

 「次回は、結婚形態と家族の起源について考える」と予告して、その準備を始めた。先行研究書をあさったが、これは大変な研究テーマであることが分かり、天を仰いだ。
 とりあえず、以下の文献は最低限読まなければならないことが分かり、古書店などで手に入れ読み始めた。
・エンゲルス『家族・私有財産および国歌の起源』(1877年、新日本文庫)
・モルガン『古代社会』(1877年、岩波文庫上・下巻)
・セミョーノフ『人類社会の形成』(1972年、法政大学出版局、上・下)
・高群逸枝『女性の歴史』(1972年、講談社文庫上・下巻)
・不破哲三『『家族、私有財産および国家の起源』入門』(1983年、新日本出版社)
 それぞれが大著で、1週間やそこらで研究できるようなテーマではないことに気づくのに時間はかからなかった。

 斜め読みの結果、とりあえずの結論は、以下のようなものであるらしい。
 ≪記録に登場する最初の結婚形態が、夫婦の同居のない妻問婚だったということは、それ以前の時代も、日本人の原始社会には夫婦が同居する「家族」が存在しなかったことを、教えています。
 縄文時代の竪穴住居の解説図に、夫婦と子どもが一つの住居でくらしている姿を描いたものがよくありますが、あれは今日の“家族”を数千年前に誤ってもちこんだものです。当時の集落には、20戸前後の竪穴住居が立ちならんでいるものが多くありますが、その一つ一つに個別の家族が住んでいたわけではなく、そこに住む全員が一つの共同世帯(氏族)に属して、適当に4、5人ずつ分かれて住んでいたと考えた方が、真実に近いだろうと思います。≫(不破哲三『、141ページ)
 ≪集団婚から対偶婚へ、それから個別婚(一夫一婦制)へという、モーガンとエンゲルスが究明した結婚=家族形態の発展法則は、独自の歴史的特長をもちながらも、日本社会にも大局的にはやはり作用していることを、証明するうえで、妻問婚や婿取婚の歴史の解明が、一つの重要な貢献となっている≫(同上)。
 
 しかし、この本が出てからもう四半世紀が経過した。現在の研究の到達点をぼくは知らない。結婚・家族形態に深入りすることは今は時間的にできない。
                          *
 新聞連載が中断してから2年。連載を再開したいところだが、残念ながら現職中は、「子どものための富士見町史」を完結することは無理かもしれない。
 だが、完結させることはぼくの悲願である。たとえ断続的であったとしても、「子どもの歴史」について断片的な研究ノートを随時書き進めていくことにする。研究ノートが連載開始の準備になることを願って。

民俗学者・谷川健一さんの該博な講演に感動

2008年09月21日
 今、講演会から帰ってきた。感動覚めやらぬうちに日記に書きとどめたい。

民俗学者・谷川健一さんの講演「巫女(ふじょ)の起源」は、巫女の起源は縄文中期にまでさかのぼると推測。その根拠を富士見町・井戸尻(いどじり)遺跡から発掘された女人土偶に求めた。
 
 縄文中期を代表する井戸尻遺跡発掘50年を記念して、民俗学者・谷川健一さんをお招きして、講演「巫女(ふじょ)の起源」をお聴きした。午後1時30分に始まった講演は、質疑応答も含めて4時20分までおよそ3時間にも及んだ。現地踏査に基づく該博な知識と思考方法は、独自性、柔軟性、多面性、重層性がきわめて印象的であった。

 講師紹介は、①民俗学の先駆者、柳田(*やなぎた)國男・折口信夫(しのぶ)を継いだが、学術化・専門化していった学会とは距離を置き、在野精神を貫いて独自の調査を進めてきたこと。②多数の著作があり、現在『谷口健一全集』全24巻を刊行中(富山房・ふざんぼう)。③2007年文化功労者、の三点にとどめた。
*みなさん、「やなぎ」と呼ばれていたが、正しくは「やなぎた」。

 会場で配布された雑誌論文は、次のように始まる。
≪信州の信濃境駅に近い井戸尻遺跡から出土した縄文中期の勝坂式土器には、頭にとぐろを巻いたマムシをいただく珍しい女人土偶がまじって、人目を引く。胸に小さな二つのふくらみをもっていることから、少女像であることが分かるが、この異様な格好の像を、私は巫女(ふじょ)ではないか、と推測している。この想定が正しければ、巫女の登場は、縄文中期にまでさかのぼることができる。…≫(『季刊 東北学』2008年第15号「巫女と巫娼」)。

 ぼくが最近読んだ谷川さんの『柳田國男の民俗学』(岩波新書、2001)には、次のくだりがある。≪私の民俗学への関心はもっぱら日本人の神と霊魂の問題にあてられてきた。私の考察の対象は、柳田が『民間伝承論』の中で人は神を懐(おも)い死後を信じ得る動物である、そうしてそれ以外の何物でもない―と言うときの神であり、または人間の他界観である。≫。つまり、動物はみな他界するが、人間だけが死後の世界を想像し得るというのである。

 沖縄の巫女の例を多数紹介しながら、神と人間、他界観などと巫女の関係を話されたが、参加者の女性が「巫女でありながら巫娼(遊女)でもあることは矛盾していないか」と質問。これに対して「矛盾していると一概には言えないと思うが…。西洋のように二分法を日本人はとってこなかったのでは…」と谷川さん。結局女性は納得しないようだったが、このやり取りはぼくにはいろいろな意味で興味深かった。

 谷川さんの本を読もう! 既に持っている『定本柳田國男』も活用しなければ…。「教育と民俗学」の研究はこれから不可避である。




(朝)見かけの黒澤明監督の映画「七人の侍」(録画)の続きを観る。続きは次回のお楽しみ。



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~「教育長日記」創刊の辞~
(2008/8/16)

小林 洋文

管理者:小林 洋文

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